ジャック・ルーボー著『環』水声社、2020年 「訳者あとがき」本書は、Jacques Roubaud, La Boucle, Seuil, 1993の全訳である。詩人、数学者、散文作家として、また「ウリポ」(潜在文学工房)のメンバーとして一九六〇年代から活躍し始めた作者の代表作ともいえる。 ジャック・ルーボーは、中世南仏のトルバドゥールの詩にも造詣が深いばかりでなく、『新古今集』をはじめ日本の古典詩歌にも詳しく、その素養を奔放自在に生かしたみごとな作品を発表してきた。和歌に基づく翻訳詩集『もののあはれ』、西欧語による最初の『連歌』(オクタビオ・パス、エドゥアルド・サングィネティ、チャールズ・トムリンソンとの共著)などがその例である。近年は「世界でもっとも短い詩」と称する「トリダン」という詩形を発明したが、これは五三五、計十三音からなる詩で、これを四千句以上集めた句集を刊行している。 その一方で、みずから「誇大妄想的」と評する生涯をかけた作品の「計画」をあたためており、この訳書もひょっとするとそのささやかな一端を担うものだった。それは数学の計画と詩の計画を含み、その計画の生成と解体を語る膨大な小説『ロンドンの大火』(この題名は一夜の夢によって与えられた)を添えたものとなるはずだった。 苦心の制作、挫折はその後も続くが、一九八三年に妻である写真家アリックスが夭逝し、その衝撃を乗り越えるかのように、ようやくかつての「計画」の廃墟としてつつましく小文字の題名のもとに書かれたのが第一の枝〈ロンドンの大火—破壊〉(一九八九)である。とりわけアリックスの思い出がここかしこに立ち込めるその作品のなかでも言及されている通り、自分の記憶を破壊するという試みであり、妻の死と「計画」の瓦解の上に生まれた作品であった。 それと同じく〈ロンドンの大火〉シリーズの一つである本書も、出版当時はそのままで独立した単行本の形をとっていたものの、その後も過去の記憶をよみがえらせ日々の記述をくわえながらいまや膨大な連作に成長して、次第に「終わりなき書物」の風貌を帯びてきている。 六巻で完結する予定で書き始められたこのシリーズは、スイユ書店から出版されてきたが、書誌は省略して大まかに紹介すると次の五巻(ルーボーは「枝」と呼んでいる)、それに第三の枝の「補巻」にあたる一冊がくわわるので本としては計六冊になる。 1、第一の枝 ロンドンの大火 2、第二の枝(本書) 環 3、第三の枝 数学とは 定言的命令 4、第四の枝 詩とは 5、第五の枝 ヴァールブルクの図書館 その後以上の五巻(枝)は大部の合本にまとめられたが、この時は総題が「ロンドンの大火」、第一の枝の副題は「破壊」となった。同時に第二の枝「環」以降第五の枝「ヴァールブルクの図書館」も副題であることがはっきり示された。 これだけで話は終わらない。日本で水声社から翻訳刊行された『ジャック・ルーボーの極私的東京案内』は、第五の枝の長大な未完成ヴァージョンに基づいているという。さらに第六の枝にあたる膨大なテキストがスイユ書店とは異なる出版社から未完成のまま刊行され『解散』という別の題名を被されている。ほかにもどんな別稿が潜在しているかわからない。 さて、「破壊」とこの「環」はどちらも百九十六篇の「散文の刻」から成り立っており、見てのとおり語りの本体をなす「物語」、補足や脱線にあたる「挿入」にわかれる。「挿入」には二種類あって、ひとつはその場で完結する「差し込み」、もうひとつは「物語」から離れて独自の展開をする可能性をもった「分岐」に区別される。「物語」に沿って進むか、「挿入」に出会うたびに立ち止まるか、それはあくまでも読者の自由に任されている。 これらの散文は夜明け前の早朝に、ルーボーがみずから課した規則として書かれ、単に印刷された段階、節ではなく「執筆の現在」に基づいて「刻[モマン]」を意味する。訂正、後戻り、推敲はみずから禁止する。「後悔はなし」と繰り返し書き付ける。読者にとっては一刻という一単位の読書が終われば、そこから好きなように他の「刻」に飛んでいけばよい。巻末の目次はそうしたハイパーテキスト的な読み方に適した案内役になるだろう。 もう一つ巻末に添えられた「主要用語索引」の方は、めったに見る機会のない類の資料だが、ときには詩人のキーワードの探索に乗り出した読者が辿りつくのが、雑草の茂みや、幼児語の「ニャンニャン」だったりすることもある。一見して合理的で無味乾燥な索引の中にもいたずら好きな詩人が遊びを仕掛けてある。 ここで我々日本の読者にとってとりわけ興味深いのは、この散文にまとわせるべき衣裳・文体として、ルーボーが「鴨長明の文体」を挙げていることである。定家の十体をはじめ和歌のスタイルを研究したことは間違いないが、「拉鬼体(悪魔をひしぐ文体)」とならんでもっとも頻繁に援用されるのが「鴨長明の文体」である。この「体」は独自の呼称は持たないが、「古いことばを新しい時代に」と定義される。してみると古語の再評価、あるいは一種の擬古体を意味するのかと思われる。 なお、シリーズタイトルの〈ロンドンの大火〉とは、一八六六年に中世都市ロンドンを焼尽して近代都市誕生の契機となった大火のことではあるが、物語と直接の関係があるわけではない。前述したとおり、一夜の夢のなかで「計画」と共に書かれるべき「小説」の題名として啓示されたもので、一九九四年にルーボーが行った講演では、『方丈記』を引用し、一一七七年に天皇の都、京都を襲った大火(安元の大火)に言及したあと、「私が著作の一つを『ロンドンの大火』と題したのもその〔『方丈記』を読んだ〕ためでした」とさえ述べている。そのせいだろうか、「ロンドンの大火」というこのタイトルは歴史的な一事件を超えた普遍的な意味合いを帯びるように思われる。 ところでこの本は連作第二作にあたる「環」の翻訳である。「計画」を主題とする第一作「破壊」を先に読むべきだという意見もあるだろうが、この第二作は独立した読書に耐える。物語は作者の生誕以前にさかのぼる一方、子供時代の緑の楽園、南仏の自然、友達、動物たち、遊び、戦争、抵抗運動、映画、読書と詩作への目覚めなど「世界を見る子供」の記憶が鮮やかな環状をなしてひろがり、立ち戻ってくる。 作者のいうとおりこの本は小説ではなく、自伝でもない。あえて言うなら特異な記憶術、失われたかつての記憶術の復活を願う記憶論的なエッセイと呼ぶべきだろうか。詩人ならではの細やかな、またあざやかな散文から中学時代のラテン語の作文(本書では日本語訳のみを挙げたが)、母親が打ち損ねたタイプライター練習用紙までを含む百九十六の「刻」に時として雑学や脱線が混じることもあってそんな時にはけっして忘れぬユーモアが大いなる救いとなるだろう。 二〇二〇年六月 田中淳一 |